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1 退職後に出てくる「実は社保未払が理由だった」という主張
中国子会社の人事担当者から、こんなご相談をいただくことがあります。「ある従業員が『個人的事情』で自己都合退職したのに、退職後しばらくしてから『会社が社会保険を適法に納付していなかったから辞めた』と主張して、経済補償金を請求してきた。応じる必要があるか?」というものです。
中国労働契約法上、会社が社会保険料を適法に納付していないことを理由として従業員が労働契約を解除した場合、会社には経済補償金(勤続年数N×月給)の支払義務が生じます(同法38条、46条)。社保コンプライアンスに不安を抱える日系企業にとって、退職後の蒸し返しは大きなリスクです。
結論から申し上げると、このような後出しの主張は原則として認められません。ただし、認められる場合と認められない場合の分かれ目を理解しておくことが、中国子会社の労務リスク管理上、極めて重要です。本稿では、その判断基準と実務対応のポイントをご紹介します。
2 経済補償が認められるための「2つの要件」
中国労働契約法38条は、使用者が労働者のために社会保険料を適法に納付していない場合に、労働者が労働契約を解除できると定めています。同法46条は、38条による解除の場合、使用者は経済補償金を支払わなければならないと定めています。
つまり、従業員が退職に伴い経済補償金を受け取るためには、原則として次の2つの要件を同時に満たす必要があります。
第一に、会社に社保未納付の事実が客観的に存在すること。第二に、従業員がこの法定事由を理由として労働契約を解除したことです。単に「個人的事情」で辞職した場合、退職後に社保問題を持ち出しても、原則として経済補償の対象にはなりません。
仲裁機関や裁判所は、退職時の従業員の真の意思表示を重視します。具体的には、退職届・退職承認手続・関連するやり取りなどから、解除の理由が明確であったか、前後で説明が一貫しているか、退職時点で会社の違法行為を理由としていたことを示す証拠があるか、といった点を審査します。
3 認められる場合・認められない場合 ── 実務上の分かれ目
【原則として認められないケース】
従業員が退職届に「個人的事情による辞職」と記載し、退職時点で社保問題に一切言及せず、労働契約法38条に基づく解除であることも明示していない場合、退職後に経済補償を主張しても、認められることは通常ありません。
中国の裁判所は、退職時の意思表示の明確性と前後の一貫性を重視します。後から理由を変更することは、原則として認められないという立場です。
【認められる可能性が高いケース】
他方、次の3つの要素が揃っている場合は、経済補償が認められる可能性が高くなります。
第一に、会社に社保未納付や明らかな低基数納付などの実態が客観的に存在すること。第二に、従業員が退職時に「会社が社保を適法に納付していないこと」を理由として労働契約を解除したことを明示していること。第三に、その意思表示を裏付ける証拠(WeChatのやり取り、通知書、メール、録音など)があること。
この3点が揃えば、従業員の経済補償金請求は認められる可能性が高くなります。
4 「未足額納付」は当然に経済補償の対象になるか ── 地域差に注意
実務上、もう一つ注意すべき論点があります。それは、「社保の未足額納付」(必要額に満たない金額での納付)が、当然に労働契約法38条の「社会保険料を適法に納付していない」に該当するか、という問題です。
結論として、これは地域・事案によって判断が分かれます。
会社が社保を全く納付していない、または長期にわたって漏れていた場合は、リスクは非常に高く、ほぼ確実に同条の「未納付」に該当するとされます。
これに対し、納付基数に差額がある場合(実際の給与より低い金額を基数として社保を納付している場合)は、それが同条の「未納付」に当たるかどうか、地域や事案によって判断基準が異なります。一律に「未足額納付=経済補償の対象」となるわけではありません。
つまり、日系企業の中国子会社で「節税のために低めの基数で社保納付している」ようなケースは、地域によっては経済補償の対象となるリスクが現実にある、ということです。
5 使用者として押さえるべき4つのポイント
(1)社保コンプライアンスそのものを点検する
最も根本的な防御策は、社保の納付実態が法令に適合していることです。完全未納付・長期漏れがないことはもちろん、納付基数が実際の給与水準と整合しているかを定期的に点検する必要があります。「節税のために低基数で納付」という運用は、後の紛争で会社のアキレス腱になり得ます。
(2)退職理由は「真実を書面で残す」
従業員が退職する際には、退職届・退職面談記録などで退職理由を真実かつ具体的に記録することが重要です。「個人的事情」とだけ記載するのではなく、「家庭の事情」「キャリア転換」「健康上の理由」など、できるだけ具体的に記載してもらうことで、後から理由を変更することを困難にできます。退職面談時にWeChatや録音で内容を残しておくことも有効です。
(3)退職時の主張と証拠を一致させる
退職の意思表示が「個人的事情」であったことを示す証拠を会社側で確保しておくことが、後の紛争で決定的な意味を持ちます。退職届の原本、社内システム上の退職承認記録、退職面談時のメモやチャット履歴などを一体として保管する運用が望まれます。
(4)社保問題への苦情が出た時点での迅速対応
従業員が在職中や退職前に社保問題を提起してきた場合、それを放置することは極めて危険です。その時点で従業員が「社保未納付を理由に解除する」と意思表示をすれば、経済補償の対象になりえます。苦情が出た時点で速やかに事実関係を調査し、不備があれば是正する姿勢を示すことが、紛争予防の観点から重要です。